季節講習の時期が近づくと、大手塾の現場では少し落ち着かない雰囲気が漂い始めます。「全保護者と面談を実施するように」――本社からの指示が、毎年のように届くからです。私も以前は、この指示に疑問を持つことなく、現場の責任者として面談の準備を進めていました。
その目的は、もちろん、季節講習という大切な機会についてお話しするためです。これは、多くの塾で見られる、ある種の恒例行事と言えるかもしれません。
塾の運営において、講習の提案自体は必要なことです。しかし、本当に考えたいのは、その面談が**「誰にとって有益」で、どのような「質」**で行われているか、という点ではないでしょうか。
以前の私は、この「全保護者面談」を、それが教室長の当然の務めであるかのように実行していました。しかし、ある年、山積みの面談スケジュールを前にして、ふと、こんな疑問が心に浮かんだのです。
「この面談は、本当に保護者の方々のためになっているのだろうか? もしかしたら、かえって負担になっていないだろうか?」
その問いは、私の中で、これまで「当たり前」だと思っていたことを見直すきっかけとなりました。長年、自分の中にあった固定観念のようなものが、少しずつ変化していくのを感じた瞬間でした。
「義務」としての面談が、かえって信頼を損なう可能性
少し立ち止まって考えてみてほしいのです。年に数回、特定の時期に、塾側の都合で設定される面談。その主な目的が「講習のお勧め」であることは、多くの保護者の方がうすうす感じ取っているのではないでしょうか。保護者の皆さんは、私たちが考える以上に、冷静に塾のことを見ていらっしゃいます。
「全保護者面談」が習慣化すると、現場ではどのようなことが起こりがちでしょうか?
- スケジュールをこなすことが優先されがちです。 保護者の方のご都合よりも、塾側の目標達成が先行してしまうことがあります。
- 話す内容が、どうしても定型化しやすくなります。 お一人おひとりの生徒さんの状況に深く寄り添う時間が十分に取れず、一般的なお話や講習のご案内に終始してしまうこともあります。
- とにかく「数」をこなすことが求められがちです。 そうなると、面談の質を十分に確保することが難しくなってしまいます。
このような状況では、質の高い、心に残る面談を行うことは容易ではありません。教室長も準備に追われ、「またこの時期か…」と、少し気が重い中で面談に臨むこともあるかもしれません。そのどこか**「義務感」**のようなものは、言葉や態度に表れてしまい、保護者の方にも伝わってしまうものです。
そして、保護者の方の中には、このように感じられる方もいらっしゃるかもしれません。 「きっと、また講習のお話が中心なのだろうな…」 「先生は、うちの子のことを、どこまで理解してくれているのかな?」 「忙しい中、時間を作ったけれど、あまり得るものがなかったかもしれない…」
これこそが、「義務化された面談」が招きかねない、残念な結果と言えるかもしれません。本来、保護者面談は、日々の指導の様子をお伝えし、ご家庭との連携を深め、塾への「信頼」を少しずつ、着実に築き上げていくための、かけがえのない機会のはずです。「売上」という短期的な目標のために、その大切な機会を十分に活かせなくなってしまうのは、非常にもったいないことではないでしょうか。塾にとって最も重要な「信頼」という資産を、自ら目減りさせてしまうことにもなりかねません。
「希望制面談」への転換 ― 勇気ある見直しが、より良い対話を生んだ経験
私は、ある時期から、思い切って「全保護者面談」という形を見直しました。そして、**「希望制面談」**という形を取り入れてみたのです。もちろん、これまでのやり方を変えることには、少なからず勇気が必要でした。組織の方針と異なる動きをすることに、不安がなかったわけではありません。
しかし、結果的に、この**「見直し」**とも言える判断が、私の教室運営にとって、そして私自身の働き方にとっても、良い方向への転換点となりました。
面談の「件数」自体は、以前より減りました。しかし、それによって生まれた変化は、非常に大きなものでした。
- 一件一件の面談に、より多くの時間とエネルギーを注ぐことができるようになりました。
- 十分な準備時間を確保でき、生徒さん一人ひとりの学習状況を丁寧に分析し、そのご家庭に合わせた資料を用意できるようになりました。
- 面談が「説明の場」から、「共に考える教育相談の場」へと、その性質が変わっていったのです。
そして何よりも、保護者の方々の反応が明らかに好意的になったことを実感しました。 「今日は、先生とお話しできて本当に良かったです。息子のことをこんなに見てくださっているんですね」 「いつもは塾からのお話を聞くことが多かったのですが、今日は私たちの話をしっかり聞いてもらえたと感じます」 「この先生なら、安心してお任せできます」
興味深いことに、講習のご提案についても、以前よりスムーズに受け入れていただけるケースが増えたのです。それは、表面的なセールストークではなく、丁寧なコミュニケーションによって築かれた信頼関係があったからこそ、私たちの提案が保護者の方々の心に届いたのではないかと考えています。無理にお勧めする必要は、必ずしもなかったのかもしれません。
教室長は、組織の指示と現場の現実の間で
塾にとって、売上が重要であることは言うまでもありません。しかし、忘れてはならないのは、売上とは、「信頼」という土壌があって初めて、時間をかけて育っていく果実のようなものだということです。この順番を見誤ると、塾は教育機関としての本質を見失い、単に「売上を追求する組織」になってしまう危険性があります。
保護者面談が、「営業の手段」としてだけ捉えられるようになってしまった塾に、明るい未来を期待するのは難しいかもしれません。教室長が、組織からの指示に従うことだけを考え、現場の実情に合わせて自分で考えることをやめてしまうと、その働きは「教育」から「作業」へと変わってしまいます。その変化は、必ず保護者の方にも伝わってしまうものです。
「量」だけを追い求める面談は、多くのデメリットを生む可能性があります。保護者の方の貴重な時間をいただきながら、不信感を招いてしまったり、教室長自身が疲弊してしまったりしては、塾全体の価値を高めることには繋がりません。場合によっては、「行わない」という選択肢も必要なのではないでしょうか。
だからこそ、私はすべての教室長の皆さんに問いかけたいのです。組織から「全保護者と面談を」という指示があったとき、私たちは思考停止に陥っていないでしょうか? その指示の背景にある意図を理解しつつも、現場の実情に本当に合っているのか、一度立ち止まって考えてみる必要があるのではないでしょうか?
自問自答してみるのです。 「この面談は、本当に、目の前の保護者の方と生徒さんのためになるのだろうか?」 「これは、私たちの教室とご家庭との「信頼」という絆を、より強くする機会となるだろうか?」 「それとも、組織の方針に従うためだけの、形式的なものになってしまわないだろうか?」
結論:面談は「義務」ではなく、より良い関係のための「選択肢」
保護者面談は、上から一方的に課される「義務」として捉えるのではなく、教室長が現場の実情を踏まえ、責任を持って判断すべき**「戦略的な選択肢」**の一つとして考えるべきではないでしょうか。
全ての保護者の方と画一的に面談を設定するのではなく、「今、この保護者の方とお話しすることが、生徒さんの成長にとって、そして塾との信頼関係を深める上で、最も大切だ」と判断した場合に、十分な準備をして臨む。その**「選択と集中」**こそが、面談の質を高め、結果として教室全体の価値向上に繋がっていくと、私は信じています。
売上は、その結果として、後からついてくるものです。本物の信頼関係を築くことができれば、保護者の方は、私たちの提案にも自然と耳を傾けてくださるようになるはずです。
組織全体の方針が、常に個々の現場にとって最適であるとは限りません。むしろ、現場の状況を最もよく知る教室長自身の経験と信念に基づき、時には既存のやり方を見直し、より本質的な価値を追求していくこと。それこそが、教室長の重要な役割であり、仕事のやりがいにも繋がるのではないでしょうか。
私たちは、組織の指示に従うだけの存在ではありません。自らの考えで、現場をより良くしていく担い手なのです。その自覚と責任感が、より良い塾作りへと繋がっていくと信じています。
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